Art Point Picks
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[ さわひらき: dwelling ]
1977年石川県生まれ。ロンドン在住。
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イーストロンドン大学美術学科にて彫刻を学び、ロンドン大学付属スレード美術学校美術学科修士課程を修了する。コンピューターのCG編集ソフトを使い、SF的でユーモラスな映像作品を制作する。
本映像『Dwelling』では、何気ない自室のアパートの一室のなかでミニチュアの大型旅客機が一機、また一機と床やベッドを滑走・離陸、次第に室内は飛び交う旅客機で埋め尽くされていく。さわは、詩的な虚構を巧妙にちりばめ、日常の中に見える、ごく私的な、存在はしているがどこか曖昧な現実を形にしようとしている。この幻覚的情景は適度な弛緩とポップ感を伴い、ビデオ・アートの新たな可能性を示唆する。
主な展覧会は、リヨンビエンナーレ(2003年)、「Have We Met? 見知らぬ君へ」(2005年、国際交流基金フォーラム、東京)、横浜ビエンナーレ(2005年)、『アーティスト・ファイル2008』展(国立新美術館)など。 -
[ capicua ]
2001年、若手クリエイター発掘のためにスペインで始まったインターネット上でのショートフィルム映画祭、Jameson Notodofilmfestの2010年受賞作品。
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作者のRoger Villarroyaは1985年バルセロナ生まれ、New York Film Academy卒業、現在はバルセロナ在住で映像制作を続けている。機知の効いた表現で社会に問いかける作品が多く、本映像も、最後に驚きと共にじんわりと納得させられる作品だ。タイトルの「capicua」とは、スペイン語で、例えば232、1567651のように、始めと終わり同じになるように繰り返す数字、文字のこと。(日本でいう、トマト、たけやぶやけた、、等の言葉遊びのような。) 老人ホームでの映像が、その職員の女性のナレーションとともに進んでいく。日常の生活、様子が流れていき、最後にその本当の意味が明らかになる。映像とナレーション、構成による独特の説得力を持つ作品。 -
[ たま 電車かもしれない ]
近藤聡乃は、1980年千葉県生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業。2010年現在ニューヨーク在住の若手アーティスト。
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主に少女と虫をテーマにした、奇妙で幻想的な作品を中心としている。2000年マンガ「小林加代子」で第2回アックス新人賞奨励賞(青林工藝舎)を受賞した。シャープペンを使って繊細なタッチで描くドローイングに加え、最近 では油彩にも着手している。2008年、2冊目のマンガ単行本「いつものはなし」(青林 工藝舎)を出版。
本映像は、知久寿焼(音楽グループ、元たま)の曲に合わせてリズミカルに踊る少女の作品で 2002年NHKデジタルスタジアム、アニメーション部門年間グランプリを獲得した彼女の初アニメーション作品。主人公はどこか昭和の香のする少女。大人になりきれない幻想の中で軽やかに遊んでいるようなイメージで、「ぼくらは生まれつき体のないこどもたち〜」と歌うたまのシュールな詩に妙に合っている。 -
[ 現代美術作家 須田悦弘の制作風景 ]
彫刻家。
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彼の手により生みだされる葉や花は、リアルだ。ある場では椿が華やかに且つ儚げに咲き、またある場では雑草が密やかに且つ力強く生える。葉脈、斑の入り方、虫喰いに至るまで、とても木彫りとは思えないほど。初めてその作品を目にした時は、その技術にまず驚かされる。緻密な作業の積み重ねによる精緻な作品は、職人好きと言われる日本人には好まれるだろう。しかし彼はリアルさだけを追い求めているわけではないようだ。作られたリアルだからこそ沸々と湧きあがってくる人の手が介されたにんげんくささ、あたたかさとでも言おうか、そのようなものが徐々に感じ取られて来る。
香川県直島には、彼の作品が2ヶ所で展示されている。その片方、直島・ベネッセハウスミュージアムの雑草の作品は、清掃業者の人が間違ってぷちっと摘み取ってしまったというエピソードもある。建物というある種の日常空間の中におけるドラマチックな作品を、ぜひ一度その目でご覧頂きたい。 -
[ Art Biennale 2011 – France ]
2011年ヴェネツィア・ビエンナーレのフランス館では、クリスチャン・ボルタンスキーが出展。
ボルタンスキーは、1944年フランスのパリに生まれる。ユダヤ人の父親が差別を受けた経験などから、「生と死」をテーマに、様々な写真や古着といった人の痕跡が残る物体を集積することによって、人の経験(記憶)のはかなさについて多くの作品を作り続けてきた。
共通する記憶であるにも関わらず、それは観客の個人の記憶に回帰する。共通=一様ではなく共通=多様な記憶を呼び起こす。記憶を保護し、蓄積していくにもかかわらず、それは、精神でしかなく、実際の人々ではない。結局私たちは何も守ることができない、という事実、それが作品の動機のひとつとしてあるようだ。世の中にはこんなにたくさんの情報があり、さらに情報を加え続けていくけれども、生命は守れない。誰かについての情報を聞けば聞く程、その人物の不在を感じることになる。この大量の写真を不在の象徴として展示することで、観る者の過去や今この現代社会に存在していることの意味を考えさせられる。 View more